昭和42年6月1日 月例祭
(途中から)西遊記というのがございます。孫悟空の物語ですね。孫悟空がもっておる棒をいつも。その棒を如意棒と。自分の意のままになる。如意棒という便利な棒をもっておる。御道の信心をさせて頂いたらそういうように、自分の意のまま、思いのまま、いやむしろ自分の意のままというよりも、思いのままというよりも、思い以上におかげを受けていこうという道を、教祖の神様は私ともに教えてくださったのでございます。どうぞ、この事が成就いたしますように、どうぞ、この事がおかげになりますようにと一心におすがりさせて頂きよりますと、成る程、思いもかけないようなおかげを受けたと。
今晩もお参りになっておる、(?)のかたですけれども、昨夜その、石浦という部落から、お参りになられた方のお話。いわゆる信心のしの字もなかった私が先日から、ある用件でいっぺんここにお参りになっておったことがあるのでございますけれども、ある、事情でですね大変困った問題があったのです。
そこでですね、一生懸命にですね、当時久留米におられたのですけれども、今も勤めておられるのですけれども、そこで一生懸命合楽の金光様、一生懸命念じたのです。ところがその、不思議なおかげを受けたと昨日お礼参拝があり、またこれからの行き方あり方についてのご相談があったのでございますけれども、どうぞ、そこまでおいでおられるのならば一心におすがりしなさい。
神様に只今お願いさせてもらいますと、( ? )の状態なんです。ですから、あなたはいよいよ肉弾を持って前進していく以外にないのです。ぐずぐずしておったらこちらがやられる。ですからどうぞ肉弾をもって神様にぶつかっていきなさいというように、御理解を下さった。実はその通りでございます。と今朝から朝の御祈念にお参りになります。今晩もお参りになっております。ここにお参りもしたことがない、お届けもしたことないけれども合楽の金光様とこう、久留米の空からこちらを向かって祈り願われたというところ。それこそ、どげん考えても不がよかったとかいわれない。信心のなかったその方が言われても。そう思わなければおられないほどのおかげが現れた。
ね、勿論そういうおかげがいつも現れるとは思われません。それこそ、神様ご自身が御助かりになりたいばっかり。という事は氏子が真実助かるという氏子の真実の助かりを願われるばっかりに、いわゆる、神の権威にかけてもおかげを見せてくださるわけなのですね。神様はこういう働きができるのぞという神の権威にかけてみせて下さる。
そこで私ともの生き方がその神様の心に沿い奉るあり方にならせてもらうところに、いわゆる、つきぬおかげ、私先ほど申しますように、意のままになるおかげ、いや意のままになるところではない、思いのままところではない、夢にも思わなかったおかげに展開してくるのでございます。そのためにです、お互いがいよいよ自分自身の心が自由自在に使いこなせれる私ともになる稽古をするです。
自分の心というものを(?)腹がたった、腹がたったというその思いをいつまでも持ち続けるようじゃいかんのです。それを自由自在に自分の心を駆使していけれる。自分の心を自由自在に有り難いほうへ有り難いほうへ向こうていけれる。叩かれた時には痛かったけれども、いわゆる、あいたというたけれども、腹もたったけれども、次の瞬間にはです、おかげを頂いてありがたかったというこういうふうにです、自分の心を自由自在に有り難い方へ有り難い方へと使うて行く稽古なんです。
いわゆる心の使い方なのです。孫悟空があの棒を何畳の長さにする事もできれば、耳の中に隠すこともできる、小さいものにする事ができるように、小さい、もう小さい神経を使って有り難くならせて頂く稽古をさせて頂く。
そこでなんですけれどもね、なかなか性格というものがある。ばかといわれても信心がなかっても平気でおる人がある。けれども、ばかと言わんでもまあいうなら、神経が細い人なんですよね。まあ、その人に言うたわけじゃないのですけれども、自分に言われたと思うのですね。そういう風に神経を細かに使うわけなんです。あの人は私にあてつけたといったようなことを思うわけなんです。
ね、神経をつこうておる。ね、しかし、神経が生きておくということはいいですね。末梢神経にいたるまでそれこそびりびりとした働きを頂かせて頂く為にはそういう、末梢神経、行き届いた信心をさせてもらわなければいけない。
私今日夕方、もう神饌もお掃除も何もかにも終わって一通りみてまわりました。それで、えー、皆さんがお使いになるあそこのお手洗いのお便所もいっぺん覗かせてもろうて、もう1週間くらいいれられた花がそのままにかれたようにして刺さっておった。私はあれを見逃すことができないのですね。私の神経なのですよ。やはり。ですから、早速あれをとり捨てさせて頂いてから何か裏にないだろうかと思うて、裏の帰りがけ寄りなさい、私があれをいれたの(?)。生き生きとした花をまあいうならいれさせて頂いたのです。あれが私ではなくてです、ね、あれは皆さんが気をつけられるということになったら素晴らしいと私は思う。私がしたのでは値打ちがない。私があそこのお掃除をする、私がここの、御用もする。そしたら私肝心要の事ができませんもんね。けれども、私の信心が末梢神経にいたるまで、行き届いた信心ができさせて頂きよったらです、恐らくあのようなことはなかろうと思いますね。
しかも、入り口のお手洗いにみんながおいでられる時にです、枯れた花があるのがいいか、生き生きとした、水水しい草花でも良い、さしてあるほうが良いのか、考えさせてもろうた。皆さんの神経もだからいい加減なもんだということになる。あれを見ながら平気でおれれるのだから。下駄がこっち向いておろうが、あっち向いておろうが問題ではない。それは皆さんの心が大きいのかもしれません。それではね、おかげは受けられんです。私ともは前に進ませてもらいよったらそこに埃があったりしたらどうも前に進む気がせん。というてなら私がそれをさせて頂こうとするとこのごろは非常にその神様からお気付けを頂くのです。
私が(?)あったりすると、先日私が雑巾をちょっと握ってしたら、もう打たんで良い所に頭を打つとジャン。あの、お手洗い鉢が手洗い鉢で頭を打っておるのですからね。私はあそこにいつも雑巾を置いておかなければ気持ちが悪いのですよ。ね、上がってくるときにみんな夏は素足ですからあれに皆さん(?)。そしてあれがカラカラになっておったら、横にどうもそれがその、例えば、もし私が雑巾を握るときには神様にお願いをしておすがりをしてです、私の不行き届きをお詫びさせて頂いてさせて頂くのです。うかつにしよったらそれこそ、もう頭を打ったりけっつまずいたりするのですよ。ね。そういうことをお前がするのではないのぞと。お前の神経のいわば、末梢神経にいたるまでの信心が細かいところに神経を使うところ信心ができないから、このようなことぞ不行き届きぞとお叱りを頂いておる気持ちで私が改まっていけばそれこそ末梢神経にいたるまでのびりびりしたおかげを受けられるはずです。
ね。皆さん心掛けなければ行けませんですよね。かと言うと今申しますように汚れておろうが、どうしておろうが平気でおれれるという人がやっぱり性格的にありますけれども、だんだん信心をさせて頂きますとです、もう、お三宝がこんなもうちょっとゆがんでおるだけで向う気持ちがしないのです。それをあの、金光様でもそうでしたよね。もう十何年も前だったでしょうか、ある御大祭におかげを頂いた、まだ仮斎場の時であった。秋永先生と二人であった。一番正面のところであの、来賓の方たちが座られるところで腰掛けてから拝みよった。
その、奏楽と同時に金光様がお出ましになられて、お装束を着けられてから、先導をする方が先導をして、あの長いろうかにお出ましになったところが、私とものちょっとこの前のこの辺のところに見えられた時にちょっとかがまれたのですよね。そしてちょっと何かひらわれた。こうやって。この位のわらしべが落ちておったのですよ。ろうかに。それを平気でおいでられても良いのですけれども、もう金光様の心の中にはです、もう、そのわらしべ一つでも、前に障害があったら、前に全身お出来になられないような神経がびりびりしておられるのではないかと言う風に拝察申し上げたことがございます。
ね。皆さんが上がってくる時にです、はあー下駄が汚れておろうが、あっち向いておろうが、平気で上がってこれてここだけで(?)拝んだ所で、どうだろうかと思うのですよ。ね、人とばっかりそろえてから自分のこげんしてくるなら、どんこん同じことですけれどもね。(笑)
これは下駄だけのことではないです。ね。小さい神経を使われる。それかと言うてあんまり神経を使いところを間違えるとやりそこなうです。あれを、私今日、親教会の今日はお月並祭でございましたから、帰ってから、裸で汗をふかせて頂いてちょっと、テレビの前に座らせて頂いたら、なんか映画のようなものがあっておった。もうその場面だけしか見なかったからよく分からなかったけれども、いわゆるまあ、よろめき映画というのはああいう映画であろうと思うたのです。ね。はあーこんなことじゃいかん、こんなことじゃいかんと言うて、奥さんも謹んでおられるのです、ね。もうああ言う風にしなければならんようにできておるのですよね。主人と言う人が非常に神経の細かい人。お客さんが6人。お客さんが。だから、6人のその、酒肴の用意をせろと電話が掛かってきたから奥さん、電話をかけよっときに魚屋さんにですね、お刺身を四人分とお願いしよるのです。ね。あら、お客さんは六人といいよなさったのにどうして四人分じゃろうかと私は思いよった。ところがご主人がそんな風に仕込んでおるのです。6人分のものを4人分か三人分にこうやってしておかなんち言うわけ。そして、お客さんが帰った後にです今日はお前はお刺身の(?)多かったというてからその、奥さんにやかましくいいよりなさる。男にこんな事を言われたらもう、嫌でしょうね。それこそ、チャンスがあるならそれこそよろめきもしようごたろうと思うのです。ああ言う風に女の鍋の中のことまで神経を使うなら。だから神経が細かいというてもですね、そういうところにつこうてはいけないのですよね。
(?)ね。問題はですね小さい心を使わせていただくという事は、人の足元じゃない、人のことではない。自分自身の心の中に小さい神経を使わせて頂いていかなければいけないのです。例えていうならば、今日私がお手洗いのいわば一番大事なところにお花を入れていないいや枯れておったと。
それで、どうしてかえんかというのではなく、私自身の信心神経が行き届いていなかったのだと、私自身がわびる以外にないのです。そして、いうなら私の神経というのが信心というのはこの程度だというて、その、枯れた花をみんなに見てもらうほうがまだいいかもしれんけれども、それではあんまりだと言うて、他の花と取り替えたのだけれども、ね、そうじゃないでしょうが、誰がせんのじゃないでしょうが。私の心の中にその小さい神経を使うていかなければいかんのです。ね。
人に、接する場合はそれこそ、春の海のように。自分には冬の(?)ような厳しさを持ってというような言葉を持って、申しておりますですね。昔の人は。私はこういう風に頂いておる。自分の心は、顕微鏡で眺めるような心持と仰るです。私のどこが悪かかというときにはもう、平気なんだ。自分自身の心の中をです、どういう小さいばい菌のようなものでも、見逃さないというような気持ちで自分の心を覗いて御覧なさい。それこそ、誰ではない彼ではない。私自身が悪いのだということになってくるのです。
それこそ、郵便ボストの赤いのも、ね、電信柱が高いのも皆私が悪いのよと言う事になってくるのですよ。ね。ですから小さい神経を使うということはです、人の足元に使うのではなくて、自分自身の心の上に小さい神経を使こうていけというのです。
そして、人には春のような穏やかさを持って接していくのだと。いうならば人の心をです、望遠鏡で眺めるくらいな気持ちでおかげを頂いたらいいのです。遠いところから眺めたらいいのです。それでも、目に余るところはです、そこんところを祈っていくのだ縋っていくのだということなのです。
今日私親教会に出らせて頂いて、あるちょっとした事がありまして、心に掛かって心に掛かってならないことがあったんです。ね。しかもそれは、私の心に掛かると言うことは心が暗くなるようなことなのです。そこで私はですね、お祭り前に霊神様のご挨拶をここで三回ですか、させて頂きますから、皆さん私8時に奉仕しますから、8時においでられますとね、御霊様の一緒にご挨拶も出きるのですよ。
ね。この前もでしたけれども、今日もです,私がそこのところをです、善導寺の初代の先生にです、お呼び出し申し上げたときにです。親先生実は今日はこうこうでしたが、私に信心の不行き届きがこういうような私が嫌な思いをしなければならないことでございましたでしょうか、私のお粗末御無礼をございますけれども、どうぞお許し下さい。又、それと、でなかったら神様のご都合でご都合でございましたでしょうか、いうならば神様の御演出であっただろうかと思うたとたんにかちっとお勇みがありましたよ。
ね、なるほどお粗末御無礼もありましょうけれども、大体のことをいうと、神の都合じゃと仰るのです。私の心は一遍に晴れてしまいます。ね。私が何時間という間を自分の心の中に厳しく自分の心が暗くなるくらいに考えた。どこがお粗末でどこがご無礼でああいう事になったのであろうかと。ね。そして、そういうような心持ちでお祭りに望んでもいけないと思うたから、私はお願いさせて頂いたら神の都合ぞということであろうと思うた。ね。神様の御演出なのだろうか。神様がそういう風にお働きくださってあるのだ。してみると、神様のお働きに対してお礼を申し上げねばならない事を私はどうしてどうしてと心を暗くしておるということ。神様のご都合なのだと。分かったとたんに私の心は晴れている。
今日、お夕食をさせて頂きよりました。一番下の小学校に行きよるとが、泣きべ面してからかえってきました。ここがぬれしもうた。夕方その兄ちゃんと一緒にお水を蒔いていたらしんです。ところが中学に行っております兄ちゃんが帰ってきてから混ぜくったのですね。そしてから、混ぜくっただけならいいばってんかその、栄四郎、水をかけたらしいんです。ほいでその明日学校に着ていくとがなかち言うてから泣きよるのです。
ね。そして丁度その中学生も入ってまいりました。そしたら、家内がですね、もう、幹三郎に「幹ちゃん、あんたばっかりはもう、こまいものばっかり(?)から」それこそ今度は幹三郎と喧嘩になった。それこそ、目を傘立ててから家内がやりやりやります。そして私は家内に申しました。「おまえが子供の喧嘩にお前がすることいらんじゃないか」(笑)ね。そりゃあ言うて聞かすくらいならよかばってん、お前がその目玉を三角にしたり四角にしたりすることいるか」(笑)。といいながらです、と言いながら私の目が恐らく三角になっておっただろうと思うのですよね。(笑)
本当におかしなおかしな事ですよ。ね。ある、おばあさんたちがですね、無言の行を始められたのです。ね。小僧さんの一番小さいとだけが、色々用事をするためにですね、一人やっていない。三人の小坊主、中坊主、大坊主三人がやりだした。
夕方にもなってきてから、もう、(?)の中が暗くなってきた。そしたらその、一番小さい坊さんがですね、もう、小僧を捕まえてから、これはその灯火が消えかかったではないかと。というておらんだちいうわけ。そしたら中坊主さんが言うたち。これは無言の行じゃがち。一番大坊さんが、それこそ、悟りすました顔をして仰ったち。ね。無言の行に物を言わなかったのはわしだけじゃち。(笑)今日のその私の姿がその大坊さんのような状態じゃなかったじゃろうかと思うのですね。
子供の喧嘩にお前が喧嘩することがいろうかち。もう夫婦喧嘩に(笑)ね。そういうときなんですよ。そういう時にです、祈るのですよ。いわずに。例えば言うてもですそれこそ、もう、いつもよりかやさしい顔でいわないかんです。いわゆる心に感情のないという事なんです。それはわからん物導くときですから。ね。
そういう風にですね、自分の心の使い方というものを自由自在な使い方が出来れる稽古を本気でさせていただかなければいけないと思うのです。ね。どうでしょうか。そこに焦点を置いてから稽古をなさる。ね。不思議なんです。稽古なんです。稽古させて頂きよりますとですね、それは、至難と思われるような事が出来ていくようになるのです。自分の心が自由自在に使われる。しかもそれが、有り難い方へ有り難い方へ使われる。生神金光大神というのは、この方がおかげの受け始めである。という。皆もこのようなおかげが受けられるぞと仰る。この方のことを生神生神というけれども、私だけが生神さまじゃないのだと。みんなも生神になれるものを持っておるのだと。
ね。生神とは神がここに生まれると言うことであると。みんなもこのようなおかげが受けらると仰る。生神とはここに神が生まれると言うことなんだ。その生神とはどういうようなことなのか。ね。信心がないまではその事が血の涙が出るくらいに情けないことであった。その同じ問題であるけれども、その血の涙の出るような、問題がです、それこそ涙が流れるようになるくらい有り難いというのが、心の使い方の出来たときなんだ。ここに神が生まれるということはそういうことなんだ。
ね。久留米の初代の石橋先生ではないですけれども、師匠であるところの桂松平先生が石橋先生に仰る。しかも満座の中で。ね。石橋さんあんたのところの息子は馬鹿じゃのと仰る。あれは不思議ですね。馬鹿じゃないものを馬鹿と言われるのを馬鹿と言われるとそげん腹たたんばってん、本当に馬鹿んとを馬鹿と言われると余計に腹がたつ。そんなもんですよ。お前が泥棒と言われても泥棒をしておらなければそんなに腹は立たないのです。けれども自分が泥棒をしておるから腹がたつ。
まあそういう一概には言えないですけれどもです、そのようにその石橋先生は師匠でしかも満座の中でそう言われなさった時にです、石橋先生は仰ったち。「親先生、もうおかげで信心が出来ますと仰った」本当に確かに私ともの息子は小さいときに高いところから落ちて頭を打ってどうも頭がおかしい。ご神前に額ずかせて頂き御祈念でもするとき、お取次ぎでもさせて頂くときもうそれは大したものでした。
ね。私に一番始めにん、この氏子はおかげを頂くばいと仰ったのはこの先生でした。あるときに私お参りさせてもらったら誰もお参りがなかった。光男先生だけが一人御結界奉仕になっておった。お届をさせて頂いたらそのまま御祈念帖をもってからご神前に進まれた。そしてそれこそ、本当に初代の親先生そのままの御祈念をなさってくださった。そして、神様の前から御結界に下がられるお届帖を持っていきながらこの氏子はおかげを頂くばいと仰っいました。私は本当に体がしびれる思いがいたしました。あの時。
そういうようにです、大変なおかげを受けておられたけれども、一度こちらにさがられますと、やはり、人が若先生と呼ばずに馬鹿先生と言う位なお方であったということなんだ。ね。それを面と向かってその石橋さんあんたげん息子は馬鹿じゃのと仰った。
ね。先生おかげで信心が出来ます。と。ね。教会のしかもその、ご自分はあれだけの大徳を受けておられるのにもかかわらず家族の中にそういうおかげを受けておられないということがどのようにかやはり難儀と感じられた事であろうかと思うた。
難儀と感じられれば感じられるほどしかし、神様へ向かわれる思いというものは強かったに違いない。そこで、この息子のおかげでこのような修行も出来る、この息子のおかげでこのような信心も出来るというて、神様にお礼を申しておられたに違いがない。
それがそのまま、悪口をいわば、あんたの息子は馬鹿じゃのと言われた時にです、先生おかげで、信心が出来ますと、即座にお答えになったという事です。
それこそ、先生が信心がない前のことならばです、満座の中であんたなんち言うことをいうじゃろうかと言うて腹を立てられたに違いがないけれども、そのこと自身が有り難いと言うこと。もう、石橋の初代先生の心の中には、生神がここに生まれておったということなんだ。
桂先生が石橋さんでかしたぞというて一番にお杯をさされたということでございます。信心ちゃそればい。石橋さん。というてその、お杯をさされたということなんです。ね。ですから、自分自身の心の中がです、もう間髪をいれずにそれを有り難いと受けれる心。 どうでしょうね。私の一日の中にです、あれもおかげこれもおかげ。あれも有り難いことであったと有り難いと言うことになれば、ね、そういう風に自分の心を自由自在に使うことが出来れるようになったときに、おかげは自由自在のおかげ、いや、自由自在どころではない、自分の思い以上の夢にも思わなかったおかげの展開になることになってくるのは間違いないことでしょう。
ですから、お互いがそこんところに焦点を置いての信心。孫悟空の如意棒ではないですけれどもです、ね、自分自身のことは、もうそれこそ耳の中にでも入れれる事が出来る位なおかげを頂かないかん。ね。そして、これが相対的な場合、人に対する場合。物事に望む場合。それは大きな大きな心で望んでいい。ね。自分自身のその問題についてはです、それこそ、顕微鏡で自分の心を眺めるような思いでわびるところはわびていく。精進するところは精進させて頂いてです、おかげをこうむっていかなければいけないのですけれども、うかつにいたしておりますと、さっきの、無言の行じゃないですけれども、自分はいかにも師匠らしく言うておるけれども、言うて聞かせよるごとあるけれども、それが、言うて聞かせておるのではない、やはり無言の行を破ったということにおいては同じ事なんだということになる。そういう親父の言う事聞くはずがないですよね。子供が。どうぞ一つそういうおかげを頂かなければならないのです。